講談杮落とし

仕事の合間に読んだ本やドラマ、アニメ、映画の記録です。

『鬼怒楯岩大吊橋ツキヌの汲めども尽きぬ随筆という題名の小説』あらすじと感想(ネタバレあり)

 こんにちは、こけらです。

 最近何かと忙しく、更新することができませんでしたが、変わらず小説は読み続けています。

 今回は『鬼怒楯岩大吊橋ツキヌの汲めども尽きぬ小説という題名の小説』です。

鬼怒楯岩大吊橋ツキヌの汲めども尽きぬ随筆という題名の小説

 

 作者はお馴染み西尾維新さんです。またまとめてレビューしたいところなのですが、なかなか時間が取れず……(泣)

 元は「群像」2023年10月号に掲載されたものを改稿、単行本化したものだそうです。実はその時の「群像」は購入していたのですが(西尾さんは時折「雑誌掲載して単行本化しない」ということをするので……)、ヒグチユウコさんの装画、名久井直子さんの装幀ということで、手元に置いておきたいなと思って、購入しました。

 あとは、あとがきを少し期待していたのですが、ありませんでした。

 

 

以下、ネタバレまみれです。

 

 

 

 あらすじ

 平々凡々を自認するミレニアル世代の女性・鬼怒楯岩大吊橋ツキヌは、資産家の脳外科医・犬走キャットウォーク先生の飼い猫のペットシッターという職を得た。仕事場を訪れた鬼怒楯岩大吊橋ツキヌを待っていたのは、実に奇妙な猫だった。鬼怒楯岩大吊橋ツキヌとふしぎな猫の行方は如何に。

 

 登場人物

 鬼怒楯岩大吊橋ツキヌ(きぬたていわおおつりばし・つきぬ)・・・女性

 犬走キャットウォーク(いぬばしり・きゃっとうぉーく)・・・脳外科医

 

 相変わらずネーミングセンスが尖りに尖っています。色々と気になって調べてみたのですが、「鬼怒楯岩大吊橋」は実在する橋であり、鬼怒川温泉街の南部と名勝「楯岩」を結ぶ全長140mの歩道専用吊橋だそうです。

 そして「犬走り」は幅は短く長さがある空き地のことを示す建築用語だそうです。総称的に使われることもあるが、建築上では、外壁下の基礎に対して隣接した通路状の部分のことで、主にコンクリートで作られる。周辺の地盤よりも一段高くすることが一般的であり、幅は犬程度しか通れない。犬走りを設けることによって、建物が泥はねを受けないようにできる、とのことです。

 加えて、「あらすじ」の「ミレニアル世代」とは、1981年から1990年代半ば頃までに生まれた世代とのことだそうです。この言葉は知りませんでした。「Z世代」などと同じく、どこかの誰かが勝手に付けた総称なのでしょう。

 

 感想

 正直に申し上げますと、私はこの作品がほとんど分かりませんでした。かつての著作と比較するのなら、『ニンギョウがニンギョウ』が最も近いと思います。

 

 

 

 

 確かにあらすじの通り、鬼怒楯岩大吊橋ツキヌは、犬走キャットウォーク先生から面構えの無い猫の面倒を見ることになった、というところまでは分かるのですが、恥ずかしながらそれ以外が全く分かりませんでした。何を楽しめば良いのか、何を面白がれば良いのか、どういう物語なのか。掲載された「群像」は純文学寄りの文芸雑誌だと聞きます。私は無学なので、何が純文学で何が純文学でないのか分かりませんが、何度読んでも「???」が頭の中に浮かびます。

 

 私はレビューをする本を読む際、「人にどう薦めるか」を主眼に再読するのですが、今回ばかりは本当に分かりませんでした。それこそ西尾さん風に言うのなら「分からない」ということが「分かった」となるでしょうか。まあ、なので、人に薦められない、というか、人への薦め方も、私には「分からない」でした。もしかしたら作中何らかの暗号や意図があるのかもしれませんが、私には見つけられませんでした。

 

 私にとって西尾さんの著作と向き合うということは、「また西尾維新が面白い事を始めたぞ~!」と楽しむか、「ええ?……それはどういうことなの西尾さん」と不思議に思うかの二択なのですが、これは後者に近いと思います。

 

 最近の西尾維新さんについて 

 私は一応作家さんの新刊情報、公式情報を集めるために、申し訳程度にSNSをやっているのですが(全然使いこなせていません)、この著作に関しては、かなり直前の告知だったと、風の噂で聞いています。何かまた西尾さんが新しいことを始める予兆なのかな、それともただの偶然? などとと思うのは、一人のファンの勝手な憶測です。

 現在進行中の西尾さんのシリーズは、忘却探偵シリーズ、返却怪盗シリーズ(呼び名あってます?)、《世界》シリーズ、《なこと写本》シリーズ(未単行本化)、あたりでしょうか(抜けがあったらすみません)。

 以前にも述べたように、これからも私は、これまで通り西尾先生の作品やインタビュー、ムック本に至るまで蒐集してゆくのでしょうが、学生時代にもあった、西尾先生の作品を読んだ時の「熱」のようなものが、私の中から失われているような気がしてなりません。おそらくそれは先生の筆致が変わったということであり、また私自身が変わったということでもあるのでしょう。

 

 そんな中でも、きっと私は、西尾維新を読み続ける。

 

 今日はこの辺りで、失礼致します。

 

 

 擱筆

 

 こけら